創喜の世相占い

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古事記の口語訳(25)

7、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが身を清めるため禊をした。その時に多くの神が生まれたのだが、ハヤスサノヲはイザナギの鼻から生まれたにも関わらず、イザナミを母と言い、母の国、根の国の堅洲国に行きたいと泣き喚く件。

 この文章には根本的な矛盾がある。
 火の神を生んで死んだイザナミに会いに行ったイザナギが、黄泉の国から逃げ帰り、黄泉の国で汚れた身を濯ぐため、川に入って鼻を洗った時に生まれた神がハヤスサノヲである。ハヤスサノヲの誕生は、イサナミと関係ないのである。
 そのスサノヲが「私は、母の国、根のカタス国に行きたいので泣いている」と言うのである。
 スサノヲは、誰を指して母と言っているのだろうか。
 イザナミは、日高見の豪族タマキネの娘であるから、当然東北出身である。
 根の国は、島根県の一部にネという音で名残があるように、北陸から山陰にかけての地域である。
 この地は、イザナギの父アワナギが治めていた地で、イザナギが国政に進出したため、弟のクラキネが後を継いでいた。イザナミではなくイザナギの故郷ではある。
 その意味で、スサノヲがことさらネの国にこだわりを持つのは理解できるが、スサノヲには生みの母がいないのだ。アマテルやツキヨミやスサノヲも同様である。彼らが生まれた時、イザナミはすでに黄泉の国の住人であったのだ。
 古事記の記事に素直に従えば、生みの親は父親のイザナギで、イザナミとは会ったこともない間柄ということになる。
 古事記編纂者太安万侶は、この矛盾に気づいていなかった。翻って、現代の古事記学者も、この矛盾に気づいていないのであろうか。

8、天の安川の誓約でアマテルは、スサノヲの十挙剣から女の子を3人産み、スサノヲはアマテルの勾玉から男の子を5人産んだ。
 アマテルは、スサノヲの持ち物から生まれた女の子は、スサノヲの子。自分の持ち物からうまれた子は自分の子と言った。

 この文章は、支離滅裂である。
 スサノヲは、私の子は女だから、謀叛心など無いと言った。
 これは、日本書紀にある記述、男の子を産んだアマテルの勝ちとしたものと正反対である。
 男の子を産んで勝ちとする根拠は、長男オシホミミの正式名が、正勝吾勝天之忍耳(マサカツアカツアマノオシホミミ)ということからも分かる。
 流石に古事記学者もこのことは矛盾と見ているが、古事記が編纂された時の天皇が、元明女帝であったため、女帝の機嫌をとるため太安万呂が改竄したとする説を採っている。
 しかし、これは間違いではないのか。
 この時代の正統な後継ぎは男であるが、女はその男性の後継者が何らかの都合で、後を継げなかったときの代役に過ぎない。いわばピンチヒッターである。
 この誓約は、スサノヲに邪心があるかどうかの判断材料としてのものであるから、スサノヲに女の子しか生まれなかったということは、後継ぎが無い、つまり天下を取る邪心がないということにならないか。
 一方、アマテルは男の子ばかり5人(実際には派コマス姫ハヤコとの間に3人の女の子が生まれた)である。
 ちゃんと後継ぎが生まれたので、正統な後継ぎとしての資格があるという考えであろう。
 その意味で、それがオシホミミの名前に反映されているのだと思われる。
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  1. 2015/07/27(月) 09:56:17|
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古事記の口語訳(24)

4、荒れるスサノヲが服屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ斑馬を投げ入れた。これに驚いた服織り女が驚いて、『お○○こ』に機織りに使う梭を刺して死んでしまった件。
古事記訳文
 ・・・・・天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕しいるる時、天の服織り女見驚きて、梭に陰上を衝きて死にき・
古事記原文
 逆剥天斑馬剥而、所墮入時、天服織女見驚而、於梭衝陰上而死。訓陰上云富登。
日本書紀には、三書に同じ場面の記述があるが、『お○○こ』に梭を刺して死んだなどという記述は無い。
一書
即ち天斑馬を逆剥ぎて、殿の甍を穿ちて投げ納る。是の時に、天照大神、驚きたまひて、梭を以て身を傷ましむ。(この文では、天照大神自身が被害を被ったことになるが、死には至っていない)
原文
 則剥天斑駒、穿殿甍而投納。是時、天照大神驚動、以梭傷身。
一書
則ち斑馬を逆剥ぎに剥ぎて、殿の内に投げ入れる。稚日女尊、乃ち驚きたまひて、機より堕ちて、持たる梭を以て體を傷らしめて、神退りましぬ。(機織り女が機から落ち、そのはずみに持っていた梭で体を傷つけて、死んでしまった。しかし、 お○○このことは書いてない)
原文
 則逆剥斑駒、投入之於殿内。 稚日女尊、乃驚而堕機、所以持 梭傷體、而神退矣。
一書
則ち斑馬を生剥ぎにして、其の殿の内に納る。凡て此の諸の事、盡に是無状し、然れども、日神、恩親しき意にして、慍めたまはず、恨みたまはず。(梭で怪我したことには一切触れてない)
原文
則生剥斑駒、納其殿内。凡此諸事、盡是無状.雖然、日神、恩親之意、不慍不恨。
5、天照大神が新嘗祭を行う殿に、ウンチを撒き散らす件。
古事記訳文
 ・・・・・またその大嘗聞こしめす殿に屎まり散らしき。
古事記原文
 亦其於聞看大嘗之殿。屎麻理散。
日本書紀には似たような記述が、ニ書に見られる。
一書
 また、天照大神の新嘗きこしめす時を見て、則ち陰に新宮に放屎る。
原文
 復見天照大神當新嘗時、則陰放屎於新宮。
一書
 素戔鳴尊、則ち新宮の御席の下に、陰に自ら送糞る。
原文
 素戔鳴尊、則於新宮御席之下、陰自送糞。
6、天照大神が岩屋に隠れたとき、外に誘い出すために神々が集い、天のウズメが岩戸の前で踊った件。
古事記訳文
・・・・胸乳をかき出で、裳緒をホトにおし垂れき。
古事記原文
 掛出胸乳、裳緖忍垂於番登也。
日本書紀には、ウズメがこのような卑猥な踊りを披露したという記述はない。
一書
 又娞女君の遠祖天細女命、則ち手に茅纏の矟を持ち、天岩窟戸の前に立たして、巧みに作俳優す。
原文
 又娞女君の遠祖天細女命、則手持茅纏之矟、立於天石窟戸之前、巧作俳優。(天の岩戸の前で巧みに踊ったとの記述だけである)
一書
 復晝夜の殊も無し。故、八十萬の神を天高市に會へて問はしむ。(この一書には、ウズメさえも登場しない)
 先に記した一書のみにウズメの踊りが記されているが、その他の書にウズメの記述は見られない。従って、ウズメのストリップは完全に古事記の創作である。
                                  つづく
 
  1. 2015/07/21(火) 10:09:05|
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古事記の口語訳(23)

2、 古事記では、イサナギが妻のイザナミから生まれた迦具土神を切り殺した時に、その迦具土神の死体から八神が生まれたことになっているが、その記述を抜粋する。

古事記
  殺さえし迦具土神の頭に成りし神の名は、正鹿山津見(まさかやまつみ)神。・・・・・中略・・・・・・・・
次に陰(ホト)に成りし神の名は、闇山津見(くらやまつみ)神・・・・・後略。
古事記原文: 次於陰所成神名、闇山津見神

 これを現代語に訳すと、『次にお○○こ』から生まれた神は、クラヤマツミの神である』となる。

 日本書紀の対比部分は、単にカグツチ神を切った刀からしたたり落ちた血から、闇龗(くらおかみ)が生まれ、次に闇山祇(くらやまつみ)が生まれ、闇罔象(くらみつは)が生まれた。と記しているものが一書。
 しかし、『お○○こ』から何かが生まれたという記述はない。

日本書紀原文
 號曰 闇龗。次 闇山祇。次 闇罔象。

 そして、古事記と似たような『お○○こ』という言葉を含む文章が見られるのは、次の一書だけである。

日本書紀原文
 唯有其神之頂、化爲牛馬。顱上生粟。眉上生蠒。眼中生稗。腹中生稻。陰生麥及大小豆。

 唯し其の神の頂に、牛馬化為る有り。顱の上に粟生れり。眉の上に蠒(かいこ)生れり。眼の中に稗生れり。腹の中に稲生れり。陰(ホト)に麦及び大小豆(まめあずき)生れり・・・・・。

3、死んでしまったイザナミに一目会おうと、イザナギが黄泉の国(あの世)に出向くと、顔には蛆がたかり醜い姿になっていた。という件の抜粋。

古事記
  うじたかれころろきて、頭には大雷(オオイカヅチ)居り、胸には火雷(ホノイカヅチ)居り、腹には黒雷(クロイカヅチ)居り、陰(ホト)には祈雷(サクイカヅチ)居り、・・・・・。

古事記原文
宇士多加禮許呂呂岐弖、於頭於頭者大雷居、於胸者火雷居、於腹者黑雷居、於陰者拆雷居、
日本書紀の対比部分
一書
 膿沸き蟲流る。 この一文だけであるが、イカヅチ(雷)がイサナミの体のあちこちに巣くって居る様子を、記述する箇所を見てみよう。
一書
 イサナギ、剣を抜きてカグツチを斬りて、三段(みきだ)に為す。その一段(ひときだ)は是雷神(かづち)と為る。一段は是大山祇(おおやまつみ)の神となる。一段は是高龗(たかおかみ)と為る。
一書
 イサナギ、カグツチのミコトを斬りて、五段(いつきだ)に為す。此各々五つ山祇と化成る。・・・・・。
 この一書には、イカヅチの記事はない。
一書
 ・・・本の名は来名戸(くなと)の祖神(さえのかみ)と曰す。八(やくさ)の雷と所謂ふは、首(かしら)に在るは大雷(オオイカヅチ)と曰ふ。胸に在るは火雷(ホノイカヅチ)と、曰ふ。腹に在るは土雷(ツチイカヅチ)と曰ふ。背(ソビラ)に在るは稚雷(ワカイカヅチ)と曰ふ。尻(カクレ)に在るは黒雷(クロイカヅチ)と曰ふ。手に在るは山雷(ヤマツチ)と曰ふ。足の上に在るは野雷(ノツチ)と曰ふ。陰(ホト)の上に在るは裂雷(サクイカヅチ)と曰ふ。
 この一書のみに古事記に近い記述がある。『お○○こ』の上に居る雷が『裂雷』とは、宇野浩一郎さんでも「恐れ入りました」と言うほか無いのではなかろうか。
                                  つづく
   
  1. 2015/07/17(金) 20:26:28|
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古事記の口語訳(22)

本文の矛盾点

上巻(神代)編

 神代編の特徴は、なんと言ってもエログロ表現の多さである。
 そのエログロ部分を日本書紀と対比して検証してみよう。

1、イザナミ(伊邪那美命)が、火の神を生んだ時に火傷し、それがもとで死んでしまった話。
古事記
 次に火之夜芸速男神(ひのやぎはやお)を生みき。亦の名は火之炫昆古神(ひのかがびこ)と謂い。亦の名は、火之迦具土神(ひのかぐつち)と謂う。この子を生みしに因りて、みほと炙(や)かえて病み臥やせり。

 上記文章の要点は、イザナミが次々と神を生んだが、最後に火神(三種類の呼び名がある)を生んだ。その時に『陰部を焼かれて臥せってしまった』ということだ。
 原文では、『美蕃登(みほと)』と漢字の音で表しているが、接頭語の『御(み)』を美という文字で当てているのはなぜか。
 『ホト』は現代の俗語に置き換えれば『お○○こ』である。
 編者太安万侶あるいは筆記した朝鮮系渡来人の私感が、『お○○こ』は美しいというものであったのだろうか。それとも下卑たジョークなのだろうか。
 古事記に頻繁に用いられる『ホト』は、なぜ女性の陰部という意味を持つのか。
 余談になるが、その語源を述べておこう。
 漢字が伝わり音読み言葉が日本語として定着する以前、オリジナルな日本語の基本は一音語であった。一音語とは、一つの音で意味を表す言葉であり、言葉としては最も古いと考えられている。
 例えば、『メ』は、目・芽・女・雌などの漢字が当てられ、それぞれ意味が違うように見える。しかし、オリジナルな日本語は、「柔らかくて瑞々しいもの」を一音語で『メ』と言ったので、目も芽も女も雌も同じ状態を意味する言葉なのだ。
 例に従って一音語で『ホト』を分解してみると、ホトは『ホ』と『ト』という語を繋げて出来た言葉だと分かる。
 『ホ』は、漢字で書くと穂・帆・火などである。(保や補・歩などは外来語、漢字の音読み言葉であるから、オリジナルな日本語ではない)
 筍の芽が地面から三角に尖って出した頭を『穂先』と言ったり、火の先端を『炎(ホのホ)』と言ったりすることからも分かるように、空間に現れ存在感を示す(目立つ)ものをホという一音語で表現した。
 『ト』は、同じく漢字で書くと代表的なものは『戸』で、空間を仕切るために用いられる道具である。外と内を区別し、空間を使い分けるためには必ず必要なものである。
 その他、トにはもう一つ日本語として重要な意味がある。統治という意味である。
 このトは、漢字で瓊(ト)と書くが、なぜ『ト』が統治という意味なのかの説明は、長くなるのでここでは置くが、戸はこの最古の日本語から、統治の行き届いた内と統治されていない外との堺を指す言葉と考えられる。
 するとホトは、突き出るように現れたものを治める入り口という意味を持つ。
 この現れるたものとは、男根またはそこから吐き出される精子を意味し、それを納めるもの、つまり女陰を言う言葉として使われた。。
 そういえば、昔のやくざ映画などで博打好きのごろつきが、女性の股に手を合わせ、「観音様、どうか勝負に勝ちますように」、と拝んでいる場面をみたことがある。
 俗語またはヤクザ言葉で観音様と言えば、女性の性器のことであり、女性の性器は左右に開くので、そのような構造の扉を『観音開き』と言うことは、年配の方なら知っておられると思う。
 女性のホト(陰部)のように何事も飲み込み、治め、新たなものを生み出すような気(エネルギー)を持つ神として、『仏』という外来漢字が『ホトの気=ホトケ』と訳されたのだ。
 では、イザナミ(伊邪那美命)が、ホトを焼かれて病気になり、死んでしまった場面が日本書紀ではどう書かれているか見てみよう。

日本書紀の文章
 日本書紀は、いくつかの異なる文献を参考にしたらしく、『一書に曰く』という但し書きをした上で、書それぞれの記述がそのまま記載されている。本書では、必要に応じてその全ての記載事項を引用し、また内容が類似している場合は、一書だけを引用する。
(引用の書き下し文は、岩波書店1967年発行・日本書紀上より抜粋させていただいた)

①一書
 次に火神軻遇突智(かぐつち)を生む。時に伊奘冉(いさなみ)尊、軻遇突智が為に、焦かれて終(かむさ)りましぬ。
日本書紀原文
 次生火神軻遇突智。時伊奘冉尊、為軻遇突智、所焦自終矣。

②一書
 火産霊(ほむすび)を産むときに、子の為に焦かれて、神退(かむさ)りましぬ。

日本書紀原文
 生火産霊時、為子所焦、両神退矣。

③一書
 伊奘冉尊、火神軻遇突智を生まんとする時に、悶熱(あつか)ひ悩(なや)む。
 因りて吐(たぐり)す。此神と化為る。

日本書紀原文
 伊奘冉尊、且生火神軻遇突智之時、 悶熱懊悩。因為吐。此化為神。

④、一書
   伊奘冉尊、火神を生む時に、灼(や)かれて神退去りましぬ。
 
日本書紀原文
  生火神時、被灼而神退去矣。

⑤、一書
  火神軻遇突智が生まるるに至りて、其の母 伊奘冉尊、焦かれて化去りましぬ。

日本書紀原文
  至於火神 軻遇突智之生也、其母 伊奘冉尊、見焦而化去。

 古事記と日本書紀の記事の同一部分を比較してみると、明らかに古事記の文章にだけ「お○○こ」との記述がある。日本書紀の5つの書の記事には、見当たらないのに、である。
 これら日本書紀各書の記事を総合して意味を取ると、『 伊奘冉尊が次々と国を生み出した。最後に火の神カグツチを生んだ時、その火に焼かれ、火傷して死んでしまった』というのだ。
 古事記だけが、わざわざ『お○○こ』を焼かれた、と書いている。
 古事記は女帝である元明天皇への献上を目的に編纂された、と編纂者の太安万侶自身が序文で述べている。ならば、出来るだけ卑猥な表現を避けるのが普通ではないか。
 いや、そんなことはない。高貴な女性ほど卑猥な話が好きなんだ。という考えをする方も見受けられるが
、それこそ偏見である。
 現代の学者が言うように、古事記が日本最古の歴史書との位置付けを意識して書かれたならば、表現はもう少し品格を配慮したものになるのではないか。
 少なくとも国家を性格付ける書物には、品格が必要なのではという素朴な疑問が湧く。
 さらに下品な文章がつづく。

『多具理(たぐり=嘔吐物)に成りし神の名は、金山昆古神、次に金山昆売の神。
 次に屎(くそ)に成りし神の名は、波邇夜須昆古神(はにやすひこのかみ)、次波邇夜須昆売神と謂。
 次に尿(ゆまり)に成りし神の名は、弥都波能売神(みつはのめのかみ)』

「イザナミがお○○こを火で焼かれ、病に伏せった時に吐いたゲロから金山ビコの神と金山ビメの神がうまれた。次にイザナミのウンコから生まれた神は、ハニヤスビコの神とハニヤスビメの神。
 次にイザナミのおしっこから生まれた神の名は、ミツハメの神(女神)である。

 まるで子供か変態者の文章である。日本書紀と対比すると、この箇所に匹敵する文章は、一書のみが記述している。

①、一書
 其の神退りまさむとする時に、則ち水神罔象女(みつはめ)及び土神埴山姫(はにやまひめ)を生み・・・。

②一書
 吐す。此神と化為ろ。名を金山彦と曰す。
 次に小便まる。神と化為る。名を罔象女(みつはめ)と曰す。次に大便まる。神と成る。名を埴山媛と曰す。

日本書紀原文:因為吐。此化為神名曰金山彦。次小便。化為神。名曰罔象女。
次大便。化為神。名曰埴山媛。

③一書
  記述なし。
 
④、一書
  記述なし。

 
 以下、このように下ネタ的な表現箇所をいくつか書き出し、日本書紀と対比させてみよう。
                                                                       つづく
  1. 2015/07/16(木) 11:34:43|
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古事記の口語訳(21)

➂、古事記には年代表記がない。
 前述したように、私は本書で古事記の真贋を論じるつもりは毛頭ない。
 一部の学者が主調するような歴史書ではない、ということを証明したいのである。
 歴史書として認めるには、やはり年代表記が必須事項であろう。
 しかし古事記には、出来事についての年代表記が一切なく、年代らしきものと言えば、中巻以降に歴代天皇の崩御年齢だけが記載されているばかりである。
 (上巻には一箇所、稗田阿礼が天武天皇から、帝紀や旧辞の暗誦を命じられた年令が28才とある)
 また、古事記には天皇の崩御の年が、例えば崇神天皇の崩御年が『戊寅年』というように記載されているが、これは訳者本居宣長の補足であり、オリジナルな記載ではない。

➃、古事記序文の矛盾点。

第一の矛盾点
 歴史書と言えば、年代表記は不可欠な無くてはならない記載事項である。
 しかし、古事記にはそれが一切ない。
 古事記に記載されている数字で、年代に関係があるのはただ一ヶ所、稗田阿礼が天武天皇より帝紀・旧辞を誦み習え、との勅を受けた時の年齢が二十八歳だったという件だ。

 『時に舎人(とねり)あり。姓(うじ)は稗田、名は阿礼、年はこれ二十八。』

 稗田阿礼がどんな人物であったのか、学説は様々だ。
 天皇の身近に仕える舎人という役職であった、と記されているが、それ以上のことは記載がない。そのため、学者諸氏は稗田阿礼探しをしているが、徒労である。
 天武天皇が出したとされる勅の内容を精査することで、稗田阿礼の正体が明らかになり、
古事記の位置づけも自ずと定まるからである。それは後述する。

 古事記編纂のきっかけを作ったのは、天武天皇であった。

 『私の聞くところによれば、緒家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時期に、その誤りを改めておかないと、今後幾年もたたないうちに、その正しい趣旨は失われてしまうにちがいない。そもそも帝紀と本辞は、国家組織の原理を示すものであり、天皇政治の基本となるものである。それ故、正しい帝紀を撰んで記し、旧辞をよく検討して、偽りを削除し、正しいものを定めて、後世に伝えようと思う』

 と言い、『稗田阿礼に勅語して、帝皇の日嗣及び先代の旧辞を誦み習わした、』

 と記している。
(訳文は、古事記研究の権威、次田真幸氏の『古事記』全訳注。講談社学術文庫をそのまま引用した。以下、本書に記載する訳文の引用は、同書のものを引用させていただいている)
 『誦み習ふ』は、声に節をつけて、繰り返し読みなれること。次田氏の注である。
 
 ここで、一つの疑問が生じる。
 稗田阿礼は、生まれつき聡明で、一度見ただけで口に出して音読することができ、一度耳に聞いたことは記憶して忘れなかった、とされる人物である。
 天皇が言う『正しい帝紀を撰んで記し』と、稗田阿礼の『誦み習ふ』とどのように結びつくのであろうか、という疑問である。
 正しい帝紀を撰んで、新しい帝紀を記す、という作業の中間に『誦み習ふ』が必要な作業であったという合理的な根拠がわからない。
 普通に考えれば、単に正しい原本を撰んで、書き写すだけの作業で足りるはずである。
 また、天皇は、「旧辞をよく検討して、偽りを削除し、正しいものを定めて、後世に伝えようと思う」とも言っている。
 この言葉と、稗田阿礼の『誦み習ふ』との関係も、合理的に解釈するのは難しい。
 たくさんある緒家の旧辞の正誤を検討するのは誰なのか。
 稗田阿礼に、旧辞の偽りや正誤を判定し、糺す能力があったとは書いていない。
 『誦み習ふ』ことが役割の稗田阿礼は、目にしたもの、耳に聞いたものを全て覚えてしまう記憶マシーンなのである。
 『旧辞を良く検討して・・・』という意味は、記載してあることが正しいかどうかを判定するということである。その作業は、正しい歴史を知っている人か、記述内容に合理性があるかどうかを判断できる人でなければならない。
 稗田阿礼が、その作業も暗誦と同時に行ったのであろうか。不明であるが可能性は薄い。

 「然しながら天皇が崩御され、時世が移り変わったので、その計画を実行されるに至らなかった」のである。
 この文から、稗田阿礼が天皇の勅命を受けたのち、2年~3年くらいで天皇が亡くなったと推測できる。
 それから27年の後、和銅4年に元明天皇が臣安万侶に詔を下した。

 『稗田阿礼が天武天皇の勅命によって誦み習った旧辞を書き記し、書物として献上せよ』

 と言うのである。
 ここで、太安万侶は事こまやかに採録したとあるが、
 
 『しかしながら上古においては、ことばもその内容もともに素朴で、文章に書き表すとなると、漢字の用い方に困難があった』と記している。
 この意味は、書いたものを見て採録したのではなく、あくまでも稗田阿礼の誦み習った文を口述させ、それを記述したものである、と読める。
しかし、『また氏の名の「日下」をクサカと読み、名の「帯」をタラシと読む、このような類は、もとのままに記し、改めなかった』と記述している。
 一体どういうことだろうか。
 この文章を読む限り、書物か何か、文字で書き記してあるものを対象物としていることは明らかである。
 誦み習ったものを聞いて、漢字で表すのは困難と言った下の根も乾かないうちに、書いてある漢字で意味がわかりやすいものはそのままにした、と言っているのだ。
 この矛盾を、古事記学者はどう説明するのだろうか。
 もう一つ、同じような矛盾点を指摘しておきたい。

 『訓小竹云佐々(こたけをよんでささという)』あるいは『此謂赤加賀知者、今酸醤者也(このあかがちというは、ほうずきのことなり)』などの「注」を挿入している。

 稗田阿礼が声に出して誦んだのなら、小竹を何と発音したのか。ササと言わずに「コタケ」と言ったのか。普通に考えれば「ササ」と発音したはずであるから、そのまま佐々と書けば良かったのではと思われるが、わざわざ注を入れて説明しなければならない理由は見当たらない。
 そして、アカガチをホウズキのことと、意味の説明をしている。
 これらの注訳を見て、次田先生は口述を筆記したのではなく、何らかの文献なり書かれた資料なりを書き写したのではないか、との疑念を持たなかったのであろうか。
 また、稗田阿礼が旧辞・帝紀を誦み習ったのは684年頃である。
 その根拠は、天武天皇が正式に帝紀や旧辞の検証や改廃を、川島皇子や忍壁皇子らに勅命したのは681年である。
 勅命を受けた高官たちが、資料集めをするのに1年。
 検証作業を2年くらい行った結果、正しい(時の権力者天武天皇に都合が良い)帝紀や旧辞を記録させようとしたのだが、余りにも誤り(都合の悪いこと)や明らかな捏造が多かった。
 そこで、都合の悪い内容を多く含む書物を廃棄させるため、その前段として稗田阿礼と言われる人物に、それらの書物を整理し管理させたのではなかったか。
 書物を廃棄させたという証拠は、日本書紀の続編である正規の歴史書「続日本紀」、和銅元年正月十一日の記事で明らかである。
 和銅元年は、元明天皇に武蔵国の秩父郡が和銅を献じ、それを記念して元号を和銅と改め、慶賀の意を天下に示すため大赦を行ったという記事の中に見える。

 『全国に大赦を行う。・・・中略・・・山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自主しないものは、本来のように罰する』
そのころ28才だった稗田阿礼が、生身の人間ならば和銅4年には、55才くらいになっているはずである。
 天武天皇(勅から2年から3年で崩御したと仮定)以後、持統天皇(在位11年)、文武天皇(在位10年)、元明天皇(和銅4年まで4年経過)まで合計27年の歳月が経っていることは、客観的な事実だ。
 当時の平均寿命がどのくらいだったのかわからないが、55才の稗田阿礼が果たして生きていたかどうかも危しいのではないか、という疑問も当然出てくるだろう。
 稗田阿礼が生きていたとしても、朝廷の舎人職に定年はなかったのであろうか、とも思う。
 こう考えると、稗田阿礼は架空の人物だったのではなかったろうか、という疑念が湧く。
 また、稗田阿礼の存在が解明されたところで、古事記の理解にはまったく影響がない。
 男か女かもわかっていない稗田阿礼探しは、古事記研究にとって重要ではないのだ。
 古事記は私小説のたぐいであると筆者は考えているので、当然稗田阿礼は、架空の人物である。
 当時遣唐使として活躍した実在の人物、粟田朝臣真人に対抗して、太安万侶が古事記の関係者として創造した人物に、稗田姓を付けたと考えられないだろうか。
 粟田朝臣真人が大陸から新しい文化を取り入れた人であるならば、古い伝記や伝説の整理に携わった人間が稗田というのは、粟と稗の対比として面白いジョークではないか。
 ちなみに藤原不比等は、本名を『史(ふひと)』と書いたようだ。
 それを「比べて等しい人はいない」という意味の『不比等』という漢字に直したという説がある。
 この手の漢字の当て字は、良く使われる。
 不比等に対して、比べたら沢山同じような人がいる(平凡な人)という意味で、大伴旅人を『多比等』と書いた書物があることも、粟田と稗田の対比を想像させるのに充分である。。
 ともあれ、古事記の内容こそが、全ての謎を解く近道なので、稗田阿礼が男か女か、アメノウズメの命の末裔であるかどうかを議論する価値はない。
 また、稗田阿礼の年齢であるが、28才というと草壁皇子の没年令と一致しているのは、偶然であろうか。
 稗田阿礼は太安万侶が作り出した架空の人物であるが、時の元明天皇は草壁皇子の未亡人である。稗田阿礼を草壁皇子になぞらえたとしても不思議ではない。
 なぜなら、序文は天武天皇のお言葉も含めて、全て太安万侶の創作であり作文である。
 そのことは、古事記学者たちが計らずも認めている。
 
 『これすなわち邦家の経緯、王化の鴻基なり』

 が、653年に中国の文化人長孫無忌が書いた「進五経正義表」の『斯乃邦家之基、王化之本者也』の引用であることは周知であると次田先生はコメントしている。
 つまり、『これすなわち邦家の経緯、王化の鴻基なり』は、天武天皇が言われたお言葉そのものではなく、太安万侶の作文ということを認めているのだ。
 古事記学者は、天武天皇自身が「進五経正義表」を引用したのだ、というであろう。
 しかし、天武天皇が正式に帝紀や旧辞の検証や改廃を、川島皇子や忍壁皇子らに勅命(681年)した時とは情況が違う。
 681年のように高官に向かっての公式勅命ではなく、下級官吏の舎人である稗田阿礼に直接指示したと書いてある。雑談のようなシチュエーションで、「お前、やってみなさい」
的な乗りだったのではないか。
 舎人職は、現代で言えば侍従のような存在であったという。それならば、いつも天皇の近くでうろうろしているはずだ。その侍従に対しての命令が、勅命という形を取るとはとても思えない。それとも、天皇が下した命令なら何でも勅命と言ったのだろうか。
 例えば、「筆と紙を持って来てたもれ」と侍従に言ったとする。
 こんな簡単な用事の言いつけも、勅命が下ったと表現するであれば、下記の件は矛盾しないことになるが?

 『臣安万侶に詔りして、稗田阿礼が誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せしむといへれば・・・』

 以上のような矛盾点を、誰が合理的に説明してくれるのであろうか。古事記学者の方たちに課せられた課題である。

                                  つづく
  1. 2015/07/08(水) 00:48:38|
  2. 捏造された歴史を暴く
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